Gunslinger Girlで学ぶイタリア語 #5

遠過去(続き)

遠過去がどうもよくわからん(他のもわかっているわけではないけど)ということで、昨日届いた11, 13, 14, 15巻(12巻は品切れだったため未入手)を拾い読み。たとえば11巻に以下のような箇所があります。

ベアトリーチェの肉体・装備のすべては回収された

(第11巻 第64話 『敗者』の戦場)

ここはセリフではない、地の文なので、

Alla fine questo fu tutto quello che recuperarono della povera Beatrice.

…と遠過去になっているのはわかりやすい。(なんか勝手にpoveroという形容詞が足されているのは納得いかないけど、あと、「装備」はどこへ行っちゃったんだよとも思うけど、それは遠過去とは別の話。ここはむしろドライな言い方をしていて怖い…というところなので変にpoveroとか足してほしくなかったなぁ)

 

わからないのが、たとえばこういうところ、

エリザヴェータに会った後、バレエの本を読んだんだね

Dopo aver incontrato Elizaveta, mi documentai su un libro di balletto.

(第15巻 第97話 The Dying Swan (2))

「本を読んだ」ことを遠過去で書いています。文法書などの遠過去の説明を見るとだいたい「現在とは関係ない過去のこと」と書かれていますが、上記の引用箇所、明らかに現在に関係していることなのです。話者の一人(ペトルーシュカ)の名前の由来を話しているところなので、この「本を読んだ」ことは現在に関係しているに決まっている。

いろいろ調べた結果、以下のドキュメントを見つけました。

イタリア語における近過去形と遠過去形の 「置き換え」について (hokudai.ac.jp)

いやこれ、めちゃめちゃ詳しく書いてあって勉強になるなぁ。ちょっと引用させていただくと、

⑼ Lui ha letto la Divina Commedia (近過去形)
(10) Lui lesse la Divina Commedia (遠過去形)
(彼は神曲を読んだ(ことがある)/読んだ)

…という例文について、(9)の方は「特徴としてその事象の反復が可能」、(10)は「その事象の反復は不可能」と説明し、前者を「一時的な完了」、後者を「最終的な終了」と呼ぶこととする…と続きます。

なるほど、(9)の方は「いっぺん読んだけど、また読むか」ということがありうるのに対し、(10)の方は「そのときに読んだという事実が大事(もういっぺん読むとかそういう話じゃない)」ということなんでしょうな。(うまく説明できない…)

上記のガンスリンガーガールからの引用箇所も、「エリザヴェータと会った後」という大事な過去の時点で「バレエの本を読んだ」という一度きりの事実だから、「最終的な終了」である遠過去を使っている…ということなのでしょう。ちょっとだけわかった気がする。

それはいいんだけど、上の引用箇所は話者を勘違いしているようです。これはペトルーシュカのセリフなのだけど、訳文では話している相手のサンドロのセリフとして訳出されている。おそらくこれは吹き出しの形に惑わされてしまったためではないかと思います。吹き出しのとんがった部分が人物の口に向かっている場合はその人のセリフ…なわけですが、難しいのが、とんがった部分のない丸だけの吹き出し。(そういうのも「吹き出し」と呼ぶのかは微妙ですが) 丸だけのものは、コマに描かれている人物以外の発言を表すために使われることも多いですが、必ずしもそうではない。しかし、新版の訳者は「丸だけのものは、絵に描かれていない人のセリフ」というのが厳密なルールだと思い込んでいるようです。そのため、ペトルーシュカの絵が描いてあるコマで丸だけの吹き出しであれば、(ペトルーシュカではなく)サンドロのセリフであろう…と思ってしまったようです。そのせいでこの前後のコマでペトルーシュカのセリフがいくつかサンドロのセリフになってしまっています。確かに吹き出しの使い分けは難しいのだけど、日本語話者ならば口調の違いでわかるので、誰のセリフかを間違えることはないはず。このへんはやはり「男言葉・女言葉」がある言葉とない言葉の違いということでしょうか。(ペトルーシュカのセリフも別に「~だわ」というような昭和の女言葉ではないのですが、それでも男性の言葉でないのは明らか)

余談の方が長くなってしまいましたが、遠過去について詳しく説明した論文を見つけられたし、そのおかげでちょっとだけ理解が進んだのでよしとしましょう…。

 

Tu呼びのフラテッロもいた

#4で「新版では義体から担当官に呼び掛けるときはlei呼び」と書きましたが、よくよく見てみると、トリエラからヒルシャーへはtu呼びでした。なるほど…、トリエラは(lei呼びをしている)ヘンリエッタやリコよりは少し年上に見えるし、ヒルシャーとの関係性もヘンリエッタとジョゼ、リコとジャンとはちょっと違うように思えます。

 

最後の最後にやらかし…

これはイタリア語の文法とかそういう話じゃなくて誤訳について。

新版を拾い読みしているとなんだか怪しい箇所がちょくちょく見つかるのですが、なんと、よりによって最後の最後(厳密に言えば最後から2ページめですが)にやらかしてくれていました。これはイタリアのガンスリンガーガールファン(きっといるはず)のために憤りを覚えずにはいられない…!

私を育ててくれた母、そして…、天国の2人の母へ、この言葉を送ります。

Alla mamma che mi ha allevata, e all'altra mamma che è in paradiso, io desidero dedicare queste parole.

(第15巻 最終話 『希望』)

お母ちゃんが一人減っちゃってるよ! 勝手に減らさないで!!

もちろんここは日本語で読んでいても、「ん?」となるところです。育ててくれた母がロベルタのことを指すのは明らか。天国にいる母のうち一人はトリエラであろうことは明言されていないがこれも明らか。では、天国にいるもう一人の母とは誰か。これもはっきりと答えは示されていないものの、ラシェルのことでしょう。同じ15巻でヒルシャー(ハルトマン)がその遺言となる手紙で「ロベルタ、どうかこの糸を絶ち切らないで」と書いています。ラシェルが命を懸けて救ったトリエラ、その命の糸をどうかつないでほしい…とロベルタに頼んでいる。つまり、エスペランツァ(上記引用部分の話者)が生きているのは、ラシェル、トリエラ、ロベルタという3人の女性のおかげなのです。

…っていうところなんだからさぁ、勝手に一人減らしちゃダメなんですよ。台無しなんですよ!!

なおこれもイタリア語とは関係ありませんが、「エスペランツァの父親は誰?」というのも劇中では明言されていません。作者の方もここはノーコメントのようです。いろいろな意見があろうとは思いますが、自分はやはり、ヒルシャーだと思います。そうであってほしい。(あー、そういえば、新版では Victor Hartmann という表記でしたが、ドイツ人なんだからViktorじゃないんでしょうかね? なんか、一つ気になると、他の細かいところまで気になってしまう…)

 

 

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